母の作った、世界で一番おいしいと思うお寿司を、公園で友人とほおばりながら、揚げたて屋のチーズつけあげを喉にごくりとしながら、私たちは、大泣きしていた。 春の光が 天から奏でる美しいメロディのように、桜はほころび、気持ちのいい風が、私たちの涙をぬぐう。
大好きなカルロに一体自分たちは 本当の悦びを与えられただろうか? お金と時間をかけてやってきてくれて、イタリアの心からの陽気さと、口笛を携え、一人でこのサツマへきて、日本語もわからず、愛情と温かさをそして、なんだか仁義を衒いもせず、目の前に置いてくれた彼へ。
友人がいてくれてよかったと思った。 その人がいてくれて 私は 心の 悩みや、哀しさや、申し訳なさを、桜にのせて、表現できた。
目の前には母と娘がいる。 何を話すわけでもない、 にこりとするわけでもなく、娘は ぼんやりしたり、シエスタをするように、膝に顔をつっぷしたり、 寄り添って。 一言も 語らない。
何か悩みがあるのだろうか? 重大な何かが起こったのだろうか? それとも、今時、弥生時代のように、ただ 言葉もなく、春の光を楽しんでいるのだろうか?
一瞬友人との間に 疑問の言葉が走り、涙は止まったが、 なぜかそういうことも大きく包んでくれるような魂まで休まるような温かさだった。
私たちは これ以上はできないくらいのハグをして、永遠の友情を黙って確かめ合って、お互いの時間へと戻った。 そんな 豊かな一日。 カルロに 貴方に、薩摩の春に感謝。
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